Kanzan Curatorial Exchange 「尺度の詩学」vol.1

写真の余白補完によって見えてくること

 - 土屋紳一「TIMELINE」インタビュー<前篇>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Kanzan galleryで展覧会に取り組んだアーティストたちとの対話から、写真や映像メディアを用いた表現活動の方法と、実践の言語化のヒントを探るインタビュー・シリーズ。

初回は、描出するメディウムとして写真の可能性をテーマに活動するアーティスト、アーキビストの土屋紳一さんに「TIMELINE」展(Kanzan Curatorial Exchange 「尺度の詩学」vol.1, 2018.9.8〜10.7)についてお話を訊きました。

「TIMELINE」展は、「平成」や「地下鉄サリン事件」をテーマにして年表を手がけ、そのリサーチ作業に呼応するように制作した新作で構成されました。本展において土屋さんが新たに取り組んだ試みとは?本展のテーマに辿りついた背景、土屋さんが考える写真の可能性とは?「尺度の詩学」シリーズ企画者でもある和田信太郎さんと共に探ります。

 

※Kanzan Curatorial Exchange 「尺度の詩学」

都市や社会を通じて問題意識を見出す表現行為が少なくないなかで、あらためて尺度(スケール)から思考論理や表現手法を問い直すシリーズ企画です。尺度の切り替えによって、現象や感覚は複雑にも単純にもなり、投げかけた表現の伝わり方も驚きも(またその残余も)別様のものになり変わります。物事の肌理を際立たせるためには、尺度をどのように割り当てられるか、表現のアサムプション(前提)を再考する試みです。

 

 

■補完によって見えてくること

 

ーーー   「TIMELINE」展におけるリサーチや表現手法、その新たな開発と更新など、一つひとつの作品にも触れながら土屋さんの考え方を伺いたいと思います。

 

土屋:順番的に無茶苦茶でもいいですか(笑)。今ってインタビューの手法が多いじゃないですか。だから、自分はインタビュー形式をやりたくない気持ちがあって。「TIMELINE」展に関連して、まずは水戸芸術館で発表した作品から話せたらと思います。

 

ーーー   2016年の水戸芸術館「クリテリオム92 」展ですね。映像作品『re:actor』のことですか?

 

土屋:そうそう。あれは、「動くポートレート写真」という矛盾したことを言っていて。イ

ンタビューの要素は映像にはなくて、映像の横に撮影後に行ったインタビューのテキストを

置いていました。インタビュイーには、ご自身の家からカセットテープを持ってきてもらい

、それを聞いている姿を動画撮影したものです。

 

テープの中身は、持ち主ご自身の小さい頃の声や、当時好きだった音楽でした。それを何十年ぶりに聞いてみると、その人の顔が、録音したそのときに戻るんですよ。つまり、カセットテープを聞いている人自身が再生装置になって再生される。鑑賞者にそれを見てほしかった。そして、彼らの表情とインタビューのテキストを見ることによって、その「とき」を想像し、一緒に考えるという場にしたかったんです。

インタビューが成立しやすい時代だと思うから、もっと抽象的な要素をそのまま受け取れる表現があっても良いんじゃないかと思って制作しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーー   なるほど。インタビューが形式として成立しやすい時代というのは面白いです。

 

土屋:インタビューというのは、こういう風にみてくださいというようにフォーマットされ、形式化されてしまっていますよね。そのことに怖さも感じていて。

 

ーーー   確かに、どう見れば良いか分かっているので成立しやすい状態になりますね。でも、それは裏を返せば、消費されやすくなってしまったとも言えるのかなと。今回の展示にも通じますが、『re:actor』の作品のお話からも、土屋さんは、人の想像によって「補完されること」を意識されているように思いました。

 

土屋:うん、そうですね。だから、その人が想像する状態になってもらうまでがすごく難しい。インターネットが普及する以前の世代は、どうしても知りたいけど情報も少なくわからないということが多かった。だからそこには、それらを「想像する」という補完する鍛錬があったのではないかと思うんです。でも今は、ネットで調べて出てきた結果だけで納得することが多いですよね。

 

情報と情報の間に何かあるはずだ、という意識やそのことを想像することが減ってきているのではないか。その怖さがあるから、何かしなければいけないという気持ちが強いのかもしれません。

 

ーーー   土屋さんは、2001年から2010年に帰国されるまでの約10年間、ドイツを拠点に活動されていましたよね。

 

土屋:そうです。自分でもわからないけど、2000年くらいに今は日本に居ない方がいいなと直感的に思ったんです。その頃、カメラがデジタル化する動きもあり、予想以上にインターネットの勢いが大きかった。ドイツに行ったばかりの頃は、親とFAXでやりとりしてたんですよ。でも、滞在3年目くらいから、あっという間にメールに切り替わった。

 

それと、カメラをデジタルに変えるのは日本の企業だろうと、でも表現を変えるのは違うだろうと思っていました。それでも自分は日本人として何か考えなきゃいけない、と思っていたちょうどそのときに、トーマス・ルフ(写真家、1958〜)がデュッセルドルフ美術アカデミー写真学科の教授になったのを知ったんですね。ドイツは写真にも強く、表現としても先をいっていたので、日本人である自分がドイツで写真に取り組むことで何か面白いことが見えるんじゃないか、とドイツに渡りました。

 

ーーー   日本から距離をとりながら、デジタル化の動向のなかで写真の技術と表現の変化を見ていたんですね。

 

土屋:日本の月9ドラマがありますよね。月曜の夜9時に日本で放映されたものが、7、8時間後にはそれがウェブにアップされて、国境と時差を超えて、ドイツでも月曜の夜9時に見れるみたいな時代になったわけです。今では驚くようなことではないけれど、当時はドイツにいながら、日本のお茶の間にいるような感覚で変でした。そのギャップというのはとても大きいです。

 

ーーー  インターネットによって、ある意味、時空を越えて過去とリニアにつながっていく感覚や、そうした視点は土屋さんの作品にも通じているように感じます。

 

自分の身体性を確かめる

 

ーーー   「TIMELINE」展では、リサーチの方法として、まず年表を制作するところからはじめられたそうですね。展示をまずは一通りぐるりと拝見し、その後に、年表『タイムライン/Timeline』を見ながら、再び展示を巡った際、この年表がコンパスや地図のようにも感じました。さらに、地下に潜ったり、地上に出たりというような空間を縦に行き来するような強い身体性も感じたのですが、作品制作や展示の際に、身体について意識されていることはありますか?

 

土屋:もともと地図というテーマがあり、そこからの移行を経ての年表なんです。空間の移動から、時間の移動というように。

 

身体や地図に関連する作品では、2005年の川崎市市民ミュージアム「サイトグラフィックス」展の作品と、2008年にも川崎市市民ミュージアム「写真ゲーム」展の作品があります。

 

前者は、「自分はどこに立っているのか」を再確認するというのがテーマでした。地面を斜め45度に4×5のカメラで撮影し、それをフォトショップで真上から見た視点で、俯瞰したような形に変えるという作品で、カメラで撮った視点と、コンピューターでつくった俯瞰からの視点という2つの視点ができることで、鑑賞者はどっちの視点で見ればよいか悩む状態をつくりました。

後者は、「自分の目線で地図をつくる」というテーマの作品です。このときは、自分自身の身体がひとつのテーマでもありました。実際に街を歩いて撮影して制作したんです。早朝に出発して1日で撮ると決めて。

この作品では、俯瞰した視点でGoogleマップの衛星地図を見ているような感覚で地図をつくるのと、自分自身で街を歩き、撮影して地図をつくるのは、また違うことがあるだろうなと制作したことが重要だったと思います。

 

この2つの作品で、「あなたはどこに立っているのか」という問いと、「自分の目線で地図をつくる」という提案に作品を発展できた。当時、Googleマップはかなり斬新な技術で、それが登場する前に「あなたはどこに立っているのか」というテーマの作品をつくれたのは意味深いと思います。それで地図というテーマは一区切りできたので、次のテーマへと移っていきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーー   なるほど。そして次に、時間軸というテーマが見えてきたんですね。

 

土屋:時間軸というのは、最近言いはじめたんです。どちらかと言うと、写真に対してどう感動できるか、というのが大きな問題でした。関連イベントの桂英史さん(メディア研究、1959〜)とのトークのときにも話していたんですが、写真の加工の有無を聞いて、それによって写真の感動が変わるというのは変な話で……。例えば、小説を読んだときに、この小説が本当なのか嘘なのかを確認しなくても、その小説の素晴らしさに人は感動しますよね。写真を素直に感動するとはどういうことなのか、何か方法があるのかというシンプルな問いがありました。

 

ーーー   確か2008年頃に写真の表現の変化が起こるだろうと土屋さんは仰っていたんですよね。

 

土屋:そう。予測をしていたんですよ。写真の加工有無は、写真の表現において関係なくなってくるだろうと自分では見定めていました。基本的には、写真によってどう感動するかその仕方が制作のテーマとして大きいんだと思います。

 

想像性を触発させる作品の余白

 

ーーー 今回の展示では、まず最初に東京の地下鉄に関する年表をつくり、そこから作品を制作されていますが、どの作品から制作し始めたのですか?

 

土屋『アンダーグラウンド/Undergroundの地下鉄サリン事件を扱った作品ですねやっぱり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーー   Kanzan galleryに初めて来られたときにも、小伝馬町駅に行かれたそうですね。

 

土屋:そうそう。地下鉄サリン事件を調べていくうちに、小伝馬町駅から搬送された方が一番多く亡くなられているというのを改めて知りました。そこから撮らなきゃダメだろうと思ったんです。制作期間中は、小伝馬町駅にはよく通いましたね。

小伝馬町駅で降りて、そこから外に出るまでのプロセスを撮影しました。地下鉄に乗って一駅戻ってまた乗る、というその繰り返し。手探りだったけれど、自分のなかでやらなきゃと思っていたし、押さえておきたい場所でもあったから、一番、撮影に入りやすかったです。

 

次に制作したのは『セクション/Section』です。上野ー浅草間という日本で最初(昭和2年)に地下鉄が開通した区間を撮影した写真です。

 

ーーー   この作品は、縦長の写真を少しずつ一定の間隔をあけて展示されていました。この間の部分に一番注意を払われたとトークでもお話されていましたが、具体的にどんなところに注力されたんですか?

 

土屋:技術的なことで言えば、写真自体はギュッと横幅を圧縮し、肉眼で見たものとは変えてあって、スナップ写真の形式からするととても邪道なことをしています。普通に撮影した写真をきれいに合成して展示しても、ただ写真が並んでいることしか認識せず、鑑賞者が自身で補完していくような見方はしてくれないような気がして、どこか違和感や雑さみたいな隙間をあえてつくることを意識しました。そのよくわからない隙間の部分を想像することが大切だと思うんです。

 

とは言え、写真の細部も多少気にしていて。なるべく建物のなかが写るようにとか、微妙に加工してみたりと、見え方もいろいろと調整しながら、あえて計画的に雑な部分を消さずに残そうとしました。少し俯瞰して見たときに、一つひとつのズレが何かつながりが見えるような見え方を意識していましたね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーー   なるほど。鑑賞者が自ずと想像し、補完して見れるような余白ををどうつくるかということですね。その次は、どの作品を制作されたのですか?

 

土屋:その次に制作したのは、地下鉄サリン事件をはじめ、今回のテーマをいろいろと考える上で切り離せない霞ヶ関駅のサインや駅周辺をモチーフに制作した『マーク/Mark』です。そして、最後に制作したのが『ホームドア/Home Door』です。この作品が一番悩みましたね。最初は写真に人をなんとか入れたかったけど、撮影が進むにつれて何か違うと思い、人が全く写っていないものにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーー   最終的に人は入れないと決めたのはどういう理由からだったんですか?

 

土屋:実際に撮ったものを見て、今回の展示の空間の中で異質になっちゃうって思ったんですよ。地下鉄サリン事件の作品にも人はちょこちょこ写ってはいるんですけど。電車を待っている人の風景を撮ろうとか思ってたんですけど、何か違うんですよ。ここらへんは本当に勘みたいところですね。

 

ーーー   駅のホームのベンチに座って撮影されたんですよね?

 

土屋:そうです。地下鉄のホームにあるベンチで、電車が来たのに乗らないでベンチに座ったままの人がいたのを見て、おや、何してるんだろう?ってなって。

電車に乗って移動していく時間に対して、ベンチに座っている時間は、立ち止まっている感じがしたんです。だから、その場所から見える風景があってもいいなと思って。

 

それに今、東京の地下鉄では、ホームドアの設置が進んでいるから、ホームのベンチから見える風景はどんどん変っていくんだなと考えながら撮影していました。なんだかリアリティがある感じがしたんです。目の前の風景に対して、地下鉄のホームのベンチは、少し引いて考えられる場所なのかもしれないって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーー   私の最寄駅にもつい先日、ホームドアができていました。最初に見たときは少し違和感があったんですが、次の日には、なんというかもう違和感がなくて。

 

土屋:元々あった建物が取り壊されたり、新しく建て替わったりすると、以前の建物が何だったか思い出せないってことよくあるじゃないですか。それともまた違う、ホームドアは、関係性の問題としては大きい気がしています。

 

ーーー   人の行動が完全に制御されちゃいますよね。

 

土屋:機械に委ねるところが大きくなってきているというか。言い換えると、危険に対する警戒心が無くなっている。そういったことも含めて、どんどんといろんなものの考え方や社会の関係性は変わっていくんだろうと感じています。

 

ーーー   安心安全な箱に入れられて、警戒心が消えていく感じですね。人が元々持っていた感覚感度がすり減っていくような気もします。その象徴的なものとしてホームドアを捉えられるかもしれないですね。

 

土屋:ヨーロッパにいると、人同士の関わりを感じるんですが、日本ってあまりそれがなくて。日本は機械が人と人との関係性を制御していくようで、それって大丈夫なのかなと思います。だから、これからもこのことは考え続けていくと思います。

 

考えるトリガーとしての写真を求めて

 

土屋:今回の展示の大きなチャレンジは、過去の風景を想像してもらうために、あえて最近撮った写真を用いるという無茶な方法を選んだことです。もしその方法がうまくいったら、きっと写真の可能性は広がるんじゃないかと思って。つまり、写真は遠い過去や未来を考えるためのメディアになるかもしれないと考えているんです。

 

写真は、目の前にあるもの撮って、写真の加工をして、キーワードやテーマをもとにこういう事物や風景がありましたよと見せるのが基本的なんですね。だから写真は、その瞬間に撮ったものが一番重要になるという特性がある。

そのことを否定するつもりはありませんが、今回の展示写真は、いつ撮影したのかということはあまり重要視していません。つい最近、撮った写真だけど、地下鉄サリン事件のときに何かあったんだろうとか、電車が走り始めたときはどうだったんだろうとか、そういうことを想像するためのトリガーとなるような写真があっても良いのではないかと考えているんです。写真の可能性を探る者としての立ち位置や姿勢という意味でも、それを今、すごく意識しています。

 

ーーー   写真を見て、想像していくことで、様々な時間軸に触れていけるのではないかと。

 

土屋:写真を撮ることで未来や過去へ行ける、そのための地図として年表がある、という発想でやっているからですね。まぁ無茶苦茶なんですけど(笑)。いわゆる写真展とは少し違うから、写真作品を見慣れている人は、見ることが難しい展示だったかもしれません。

 

でも、写真の表現の幅、可能性というのは、もっと時間軸の幅を広げて考えることができるのではないか。それができると、結構面白いことになるんじゃないかというチャレンジでもあるんです。逆に言うと、写真が扱う時間軸の幅が広がることによって、これまでの写真手法に対してもプラスになるところもあると思います。でも現状は、何をやっているんだろうと思われているかもしれませんが。

 

ーーー   面白いですね。土屋さんの時間軸の捉え方は、ヴィジュアルを扱う表現者の時間感覚のようにも感じます。イメージをどう記述するかと言う意味で、絵画の延長で写真を考えているとも以前おっしゃっていましたね。美術の時間軸は、作家自身の身体を通して蓄積された経験とその潜在的なところでの積み重ねの何かがあって現れてくるという感じがあります。写真が触れられる時間軸の広がりというのは興味深いです。

 

土屋:そうなんですよね。考えるためには、いつ撮ったかということだけが重要ではないし。実は今回、当時の古い写真も展示しようか、ちょっと悩みました。でもそれをやってしまうと過去の時間軸しかないような気がして結局やめました。

 

写真が触れられる時間軸の話をしましたが、今回の展示で未来の時間軸を鑑賞者に伝わりやすい形でなんとか出したかった。それが、『ホームドア/Home Door』の作品につながっています。

 

元号に感じた歴史と物語性

 

ーーー   「元号に歴史と物語を感じた」とアーティスト・ステイトメントに書かれていました。日本国と日本国民統合の「象徴」である天皇が退位すると、その元号が終わるという不思議な感覚に対して、歴史と物語性を感じたと。また、日本語だと歴史と物語は別物のように捉えてしまいますが、英語では、「History」、「story」と語源が同じで、もともとは一緒のものでありとても近しい関係なのだと。

 

土屋:まず西暦はキリスト教があり、それは永遠と続くものですよね。日本の年号は、ある程度ショートスパンで変わっていく。ひとりの人の生涯という感じがして、物語を感じるんです。そして、きっとそれは、日本国民の心情や思考にもリンクし、影響しているのではないかと。このことについて、アートとして向き合う方法というのがきっとあるのではないかと思うんです。

 

今回、東京の地下鉄に関する年表をつくってみて、結果として、それは平成を考え直すことの独特な切り口になったと思っています。以前、水戸芸術館の展示のときにもカセットテープの年表をつくりましたが、今回は、まず最初に年表制作からはじめたというのは、新しい試みでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

局所的な思考に陥らないために

 

ーーー   水戸芸術館の「クリテリオム92 」展のときは、展示を補完するために、最後に年表をつくられたんでしたよね。

 

土屋:そうです。「クリテリオム92 」展のときは、写真作品は既にあり、それだけでは足りないと思い、それを補完する形で人の物語が入ってくるような映像作品をやりたかったんです。

 

実は、4つの写真作品『recorder』は、東京電力福島第一原子力発電所事故が背景にありました。被写体である4つのカセットテープレコーダーは、製造年が福島第一原子力発電所の1号機から4号機までの稼働した年と合致するものです。でも展示期間中は、そのことを伏せていました。当時、原発の問題を直接的に扱うことって多かったように思い、そうじゃないアプローチをやりたかった。人が過去を思い出す装置になるような手法をいろいろと検討し、もっと直接的に目に見える形はないかと考えた結果が年表だったんです。

 

ーーー   そして、今回は年表づくりからはじめたと。本当に作品や展示自体がどうなるかわからないところからはじめられたのですね。

 

土屋:今回僕の一番の興味は地下鉄サリン事件でしたそれには考えなければならない要素がたくさんあってそれらを取りまとめる最善な方法として年表が良かったただしそのテーマをそのまま前面に出すのは違うなと思い何か良い方法はないかと考えていきました

 

地下鉄というテーマに辿り着いたのは、水戸芸術館の年表をつくった経験があったからで、そのときも昭和と平成を比較しようと年表をつくっていました。地下鉄ができたのは昭和2年だったことに気づき、改めて、昭和と平成を比較できるなと思ったんです。そういう意味でも、地下鉄は良い素材であり良いテーマでした。

 

やっぱり軸となっているのは、オウム真理教ではなく、地下鉄サリン事件なんです。なぜ地下鉄でサリンを撒く事件だったのか。事件を起こしたオウム真理教はなぜできたのか。その構造を考えるきっかけは、年表でなければより難しくなっていたように思います。

そして、それは原発事故も一緒なんですよ。年表があることによって、局所的に捉えがちな出来事を俯瞰して捉えられるような気がしています。

 

水戸芸術館のカセットテープや原発事故の年表をつくりながら考えたのは、高度経済成長の限界でした。その思考のなかで地下鉄サリン事件がテーマとしてつながっていった。

この3つのつながりは、たぶん僕自身が考えたかった重要なテーマが、そこにあるのかもしれないです。でも、やはり難しい……。

 

ーーー   アートや表現の領域だからこそできるのは、全然関係ないように見えて、実はつながっているんだということをどう提示できるのか、どう伝えられるのかだと思います。そこは、

今回の展覧会シリーズのテーマである手法の更新に関係するのかな、とおぼろげながら思いました。

 

土屋:東日本大震災の直後の頃はそこまで余裕がなかったけど、こうして表現手法を改めて考え直すこと、更新していくにはどうするかとか、やっとそういうことが考えられる時期になったんだと感じます。そして、表現としても何か変化や更新が起こるんだろうなって思うんです。

 

そういう意味では、「クリテリオム」展では、カセットテープという身近な切り口から出発して、原発事故という圧倒的な現実を考えていかなきゃいけないという向き合い方を提案していました。

つまり、時代の状況に流されることなく、向き合わなければならないテーマを提示する必要があるということ。だからこそ、地下鉄サリン事件は、元号が変わることでリセットされ、なかったことにして、次に行くわけにはいかないひとつの出来事として重要だったのかなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■リサーチから表現への飛躍

 

和田:空間を整序する地図、時間を並列する年表と、土屋さんの作品制作では、世界をどう秩序立てるのかがキーワードになっています。表現することは、社会や世界に対して自分の意見を持つことでもあり、空間や時間の概念は物事を考える尺度にもなるわけで、地図や年表を構成し直すことは、異なる世界の見え方を立ち現すことになっていると思います。今回、リサーチの手法として年表を制作していましたが、そこはどのぐらい意識的だったのでしょうか。

 

そちらの方が飛躍しやすく表現にはなりやすい。リサーチから、もう一段、表現に引き上げていくことについて、土屋さんはどのように考えていますか?

 

土屋:僕の制作のアプローチは、基本的にトライ&エラーなんです。大事なのは、エラーの仕方をどう上手くできるか。あと、頭の中で完成が予想できることはやらないというのが自分のルールですね。どんどん違う要素、違う方法を繰り返し試して、どうすれば飛躍するのかを考えるようにしています。

 

和田:展示会場にも年表を配布し鑑賞者の誰もが手に取って、年表と作品を合わせてみるようにしました。年表が作品の整合性を与える働きもある一方で、作品の見え方が説明的になったり抑制させる恐れもありますが、それについてはどう考えていますか?

 

土屋:最初に年表をつくるという段階で、抑制を受け入れなきゃいけない。そのなかでどのような飛躍ができるかが勝負だなと思っていました。

年表を見せることは、僕の思考の部分を見せること、ネタばらしの感覚も否めませんよね。でも、あえてそれを行うことで、写真だけを展示するよりも鑑賞者にこれは何だろう?という感覚を引き出せるんじゃないかと思ったんです。

 

水戸芸術館のときは写真と動画と年表の3つという比較的シンプルな構造にカセットテープという分かりやすいトリガーがあった今回は扱うテーマや要素がかなり多かったからもっとシンプルなテーマだったら拡張していくような働きかけを考えたかもしれません。

 

和田:そういう意味で、水戸芸術館の作品は、カセットテープというメディアを通じて原子力や原発事故を考えさせるアレゴリーになっていましたが、それに対して「TIMELINE」展は地下鉄をストレートに扱ったことでメタファーとなって、場所性に潜む物語を想起させることになり、アプローチに変化がありましたね。

 

土屋:どちらも分かりづらいけど、水戸芸術館の作品の方がまだ掴みやすかったかもしれませんね。だけど今回は、今後の展開を探るためにも自分のやりたいようにやらせてもらうことができました。

 

■「宗教「地下鉄「繁栄のつながりのヒントを探る

 

ーーー   以前のトークで、地下鉄サリン事件は、高度経済成長の澱のようなものが現れてしまった事件なのではないか。右肩上がりで成長していくというあの時代の大きな価値観に乗っかれなかった人たちや、こぼれ落ちてしまった人たちの受け皿として、オウム真理教のようなカルト、宗教が生まれ、地下鉄サリン事件につながったじゃないか、という見解をお話されていましたよね。

 

土屋:宗教というと、神様や信仰ではなく、何かこう人が思考を委ねちゃうような、そういう場所のことを指しています。それは、大きなひとつの国家権力のようなものも当てはまるかもしれません。

 

そういったひとつの大きな信仰が生まれると、それに対して反抗するアンチテーゼの動きも生まれますよね。村上春樹の『アンダーグラウンド』(1997年)のタイトルのすごさって、「地下組織」という意味と「地下鉄」という二重の意味があるところですよ。それは、地下鉄を物語っている気がします。そういう意味でも、地下鉄というのは分かりやすいメタファーになっているのかもしれません。

 

ーーー   「宗教」「地下鉄」「人口(繁栄)」というキーワードのつながりは興味深いです。「TIME LINE」展が終わってしばらく経ちますが、これらの関係性について、何かその後それらのつながりの糸口のようなものは見えてきていたりしますか?

 

土屋:東京は、地下鉄があることによって都市として成立しているのかもしれないなと思います。まだ、そのつながりの部分はわからないですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アーティスト、アーキビストが拓く未来を

うつす装置の可能性

- 土屋紳一「TIMELINE」インタビュー<後篇> へ続く >>>

 

■プロフィール

土屋紳一|Shinichi Tsuchiya

1972年、横浜市生まれ。アーティスト、アーキビスト。

東京造形大学卒業。国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)卒業。デュッセルドルフ・クンスト・アカデミー卒業。トーマス・ルフからマイスターシューラーを取得。写真メディアを中心に国内外で展示を行っている。水戸芸術館 クリテリオム92(2016)以来の展示であり、国内のギャラリーでは帰国後初の展示となる。

 

和田信太郎|Shintaro Wada

1984年宮城県生まれ。メディアディレクター。表現行為としてのドキュメンテーションの在り方をめぐって、映像のみならず展覧会企画や書籍制作を手がける。最近の主な仕事として、「磯崎新 12×5=60」ドキュメント撮影(ワタリウム美術館, 2014)、「藤木淳 PrimitiveOrder」企画構成(第8回恵比寿映像祭, 2016)、「ワーグナー・プロジェクト」メディア・ディレクター(神奈川芸術劇場KAAT, 2017)、展覧会シリーズ「残存のインタラクション」企画(Kanzan Gallery, 2017-18)、「尺度の詩学」企画(Kanzan Gallery, 2018-19、。2012年東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻修了。現在、東京藝術大学大学院映像研究科助教、株式会社thoasa(コ本や honkbooks・企画・映像制作・書籍出版)ディレクター。

 

text by 嘉原妙|Tae Yoshihara

1985年兵庫県生まれ。京都造形芸術大学卒業。大阪市立大学大学院創造都市研究科(都市政策学)修士課程修了。NPO法人BEPPU PROJECTにて、地域をフィールドに様々なアートプロジェクトの運営を経験。主に「国東半島芸術祭」事業(2012-2014)にて美術・パフォーマンスの作品制作・進行管理、地元企業や市民と協働したツアープログラムの開発等を担当。2015年4月よりアーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)プログラムオフィサーとして、東京アートポイント計画事業、人材育成事業「Tokyo Art Research Lab」、東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業「Art Support Tohoku-Tokyo」等を担当。共著に『6年目の風景をきく』(アーツカウンシル東京、2016年)。

 

 

 

 

土屋紳一、『アンダーグラウンド/Underground』、kanzan galleryでの展示風景

土屋紳一、『セクション/SECTION』、kanzan galleryでの展示風景

土屋紳一、『マーク/MARK』、kanzan galleryでの展示風景

土屋紳一、『ホームドア/HOME DOOR』、kanzan galleryでの展示風景

インタビュー:嘉原 妙  写真:縣 健司

土屋紳一、『Re:actor』 2016、「クリテリオム92」展

  土屋紳一、『SCAN』 2008、「写真ゲーム」展

▲ 土屋紳一、『angle』 2005、「サイトグラフィックス」展

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