Kanzan Curatorial Exchange「写真の無限」 vol.2

Invisibly Yours

笠間悠貴

 

キュレーター:菊田樹子

 

2023年7月29日[土]- 8月27日[日]

[火曜-土曜]12:00-19:30|[日曜]12:00-17:00|月曜定休/入場無料

 

 

気象の時間

佐野裕亮

 

 突然、男と女を知らない受精卵は風の流れによって私たちを世界へ導き入れる。子供が不可視な風を追いかけるように写真家もまた、風の残滓を探し求める。写真に風が写ることはない。写るのは風が吹いているその場所の風景だけである。そこには、風の作用で動くものもあれば、動かないものもある。例えば、揺らぐ草花や木々などの植物が、一方で石や岩などの鉱物がそれにあたるだろう。写真のシャッタースピードのタイムラグによって、揺らぐ対象は被写体ブレを起こす。ブレは、風の作用であるが、風そのものが写っているのではない。写真家はブレる対象から逃れるために植物が育ちにくい山岳地帯に移動する。そこはヒマラヤ山脈の西の端の高地である。強風が吹く山の谷を撮影すれば、山肌のみが残り、風が写ることはない。そして、それらの写真には、なぜか不思議に、静寂と死の佇まいが現れる。写真家はそれでもなお、風以外の動くものにまったく関心を示さない。風だけを純粋に撮影したいからだ。すなわち写真家のこの行為は、写すことのできない風を撮るという不可能性への挑戦である。

 そこからさらに高度を上げて5000メートルの標高まで向かう。空に近づいてみると雲が流れてくる。風に乗って、雲が現れては消え、太陽が顔を出すと青空が広がりだす。乾燥したこの地域の空気は澄みわたっていて、遠くまで視野を広げることが容易い。空に手が届きそうという感覚は、ここで現実のものとなる。雲は同一のものがありえず、不定形で形態をもたない。そして、そんな雲は心の反映のようでもあり、ときには欲望の渦さえ想起させる。山の稜線上を流れる雲は、山と空の境界を曖昧にし、その隠された背後に何かを見せようとする。その現象は、不動性の前後で蠢いている風の運動を我々に暴露することである。写真家は、流れる雲の山にかかる状況を撮影することによって、写真に写ること、あるいは写らないことを超えた風の運動と時間を写真に込めることができないかと考える。世界に依拠する写真は、顕在するもののみならず、潜在的なものさえも写し取ると考えてもよい。写真は印画紙の上に現れてから、やがて消えゆく物理現象の過程そのものであり、風と雲もまた大気の運動による現象である。こうして写真行為と大気の様相は等価となる。そこで、雲が写真に写る実在と表象の間の像となり、風は写真を生成する雲を内包する力となる。雲は幾何学的世界に抵抗し、静止画である写真のフレーム内に浸食することで、気象の時間を出現させる。気象の時間とは、生成と明滅を繰り返す自然の摂理の中の、不規則な立ち現れのことを指す。そしてそれは、物理的時間と歴史的時間を背後に追いやり、横たわっている過去、現在、未来を同時に出現させる永遠の今である。そうした視点を取り込むことで写真の時間は、線的時間から円環的時間へと差し向けられる。

 風は被写体として不合理ではあるが、予期しない別の仕方で気象の時間を呼び覚ます不可視な他者である。風という、気象という不可視な他者は、男と女を知らない受精卵=潜在的他者の無限性と、表象可能で有限な現実との境目を産出しながら、また消し去り乗り越えようともするのである。気象を撮影したこの写真は、そうした最中にカメラを置いて風景の裂け目を、かろうじて写そうとした試みとしての痕跡である。

 

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見えない他者への敬具

笠間悠貴

 

 風は、遠く離れた対象への意識をもたらす。人々の生活を横切り、街を吹き抜け、林の下をくぐり、川を越えて、谷を駆け上がり、山に雲を作って、そして今、目の前でレンズに抵抗を加えている。縦横無尽に流れて風は、個々の場所と場所を繋いで、離れた世界の存在を告げる。

 Invisibly Yoursは、インド北部ラダックのヒマラヤや、ペルーのアンデス山中で、2016年から断続的に制作してきた気象に関する写真である。大判カメラを携えて、標高5000メートルを超える地点に向かった。高地を訪れる理由は、揺らぎのある被写体を避け、森林限界を超えた場所で撮影するためだ。

 そうした環境では、風を表象しようとする撮影者の意図は躓く。ただ事物に反射した光だけが写る。山に吹く風は画面の中で止み、むしろ静寂な光景として残る。現地で経験したはずの厳しい天候は、フレームの外へと追いやられる。だが不可視なものとして記録された風は、見えないからこそ、想像する余地を残す。写真を見る人の内奥において、遠くの存在を想起させる風が蘇る。

 

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当展「Invisibly Yours」は、気鋭の写真家・笠間悠貴が2016年から2023年までの間にヒマラヤやアンデスにおいて断続的に撮影した作品で構成しました。笠間は、写真の制作を始めた当初から一貫して「風景」を、2013年からは加えて「気象」をテーマとして制作を続けています。

今回の展示は、当シリーズで初となるカラープリントの新作発表の場であると同時に、この7年間の集大成でもあります。写真を学んでいた時代から笠間の作品をよく知り、2008年の笠間にとっての初の個展「風景をかじったねずみ」(ギャラリー山口/東京)では共同制作を行なった佐野裕亮氏に寄稿いただきました。

当展キュレーター:菊田樹子

 

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artscape 2023年09月15日号に、写真評論家・飯沢耕太郎氏による笠間悠貴写真展「Invisibly Yours」のレビューが掲載されています。

>>【artscape 2023年09月15日号(artscapeレビュー)】笠間悠貴写真展「Invisibly Yours」

 

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Kanzan Curatorial Exchange「写真の無限」

全4回の展示を通して、視覚から喚起される感覚や思考の、無限とも思われる可能性について考える展覧会シリーズ。

vol.1:2022年 横山大介「I hear you」

vol.2:2023年7月29日―8月27日 笠間悠貴「Invisibly Yours」

 

 

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